定まる

 かつて焼き物の仕事をしていたころ、自分の体を使いきるコツも何もつかめぬまま、結局その道から下りてしまった経験がある。以来、ことあるごとに、この身のさばき方、まとめ方、体の在り様に思いを向けることが増えはしたが、さりとて、そのための的確な稽古法は、なかなかみつけられないでいた。
 だから、整体法研究所の指導で稽古会が発足した時、積年の課題に自分の力で解答が出せるかもしれないという思いで、その向こう先に大いなる意気を感じたものである。
 いつのころからか人は、自分の体であるにもかかわらず、この身をどこか遠くへ押しやって、自分で按配することを放擲してしまったフシがある。なるほど、この手足、頭、腰には注意を向けはしても、つまるところそこまでで、それ以上のかかわりがこの身とあろうはずもないというのが、恐らくは世間一般の身体観であろう。
 稽古会が始まって一番の収穫は、そういう意味でのこの身体が、一つにまとまって機能するという統合の感覚であった。この感覚は自分の体を「どう感じとるか」という点で、その外観上の問題からさらに一歩、わが身との関係を深めねば体感は不可能なものである。
 以前の私のように、この肩、この腰が持つ動きの不自由さは、例えば、その肩と腰をつなぎ、腰と足首をつないでみるという思いもかけない身体操作によって、体のあり様そのものに大きな質的変化をもたらせもした。さまざまな稽古から、わが身が持ち得た、この身に中心が定まるという統合の感覚は、その成熟度はこの際不問としても、右を向いても左を向いても真っ暗闇という人には殊の外、頼りこの上ない身体感覚なのである。

(1993.12.28 中国新聞 『緑地帯』)