動象墨韻

 この秋、私は「動象墨韻」というタイトルをつけた筆動法の作品展を開いた。まさかの作品展は、そこに至る流れのようなものがあって、数多くの障碍は、ある流れの勢いに、その道を譲ったというほかは無い。
 製作過程の期間は、梅雨を含めて夏も雨が多く、和紙にとっては都合のよい季だと、書をやる友人に初めて教わった。あとは自分が、一枚の紙を前にどう動くかだけである。
 題材として選んだ句や文が、世阿弥、芭蕉、山頭火などと、無を根柢として生きた時代の証人であったゆえに、その行間から伝わってくる自在が、これからとろうとする動法の型を一にも、二にも厳しいものにしてゆくようで、筆を持ったものの立ち往生する時間の方が多かった。
 稽古とは考えたりすることではなく、「ある行いの世界である」と言われ続けてきた言葉は、例えば、対峙した句を前にして、この自分の体がどう動くか、どう動こうとしているのか、そういう行いを知ることなのであって、そこには精神の遊びは無い。つまり、精神の在り様ではなく、この自分の身体の表現という、その行いを通じて観えてくる世界の徹底的充足をはかるためだけに、さらに高次な統合性を有する動法へ、この身体を誘うのである。
 残された課題の大きさに言葉もないが、ただ、まだ観ぬ新しい自己への尽きぬ興味と、「この一秒に賭ける」体感が、強く後押ししてくるようで、これは動く以外に助かる道は無いと今は思っている。

(1993.12.27 中国新聞 『緑地帯』)