筆動法

 稽古会の稽古種目に、筆動法が加わったとき、「整体」というものへの観念の仕方が、私の内で少しずつ変わってきたように思う。
 筆とくれば、いわゆる「習字」「書道」という馴じみのある風景が、ここでは一転して左手に筆を持つ、常ならざる自己と遭遇する。「小手先の動きに慣れた利き腕では筆を持たぬ」が、その理由である通り、いっさいの思い込みは、その動法においてぬぐい去れれてゆく。
 「一点を打つ」ことから始まる基本動法は、その季に応じて内観の焦点が変わることもあるが、いずれにしても、この身体をどう動かせば、点が打たれ、線が引けるかなのである。
 私は身を縮めるというのが、どうも下手である。特に左より右の縮みが悪い。あるいは、反れない、しずめない、ひねれない。
 そう思い込んだ動きの観念は、その観念が、一体、何であるかを自らが認知できてゆけば、変わり得るものだと、最近では少しずつ思えるようにもなった。
 私のところの稽古会での筆動法は、六十歳を越えた人の方が、熱心というと怒られるかもしれないが、少なくとも、自らの身を動法の内に活かすということを知っておられるような気がする。
 今日も稽古が終わったお茶の時に、「死ぬ覚悟も必要ですが、いつまでも生きられるか分からぬ時、生きる覚悟もしませんと」。フッと言われてしまうと、「生きる覚悟」という、この言葉が妙に鮮度をもってこの身を揺すぶり、一つ一つの動き型は、まさに、この生きる覚悟を自らの内に獲得するためにこそあるのではないかと、目の醒める思いがしたのだった。

(1993.12.24 中国新聞 『緑地帯』)