歩く

 歩くことは好きである。稽古会を始めてから、歩くことはさらに楽しくなった。一昔前は、肩で風を切る男まがいの歩行にヒンシュクをかったが、稽古会に出るようになってから、自分の歩き方の変化に少しワクワクしている。
 稽古会では、動きの知恵として「内観法」を用いる。内観とは、「自分の体をよーく観る」ということであるが、その時の身体とは、例えば腰がダルイと感じている身体、頭が重いと感じている身体である。そういう時の腰は、本当に重くって、膝のあたりまでドーッと落ちている感じがする。
 われわれが整えていこうとする身体は、そうしたことを感じている身体であって、これを内観的身体と呼ぶ。この内観的身体を生活の中で観る習慣をつけようとしてから、歩くことをはじめとし、動くことの面白さが倍増してきた。
 稽古法に「動法」がある。動きを内観しながら動くのを動法と呼び、動きを内観することなく動くことを体操と言い、その動きには質的違いがある、と教えられている。
 明治以前の日本では、走ることはある特殊な技法であって、人は皆、踵をぴたりと着地した、すり足の歩行であったと聞く。稽古会で、そのすり足歩行をしてみれば、内観的に足首を締め、股関節を締め、前に行くには後ろへの逆の拮抗感覚と、歩くにも並大抵ではない技がいる。しかし、お尻をふり体を引き締めることなき歩行とは、観えてくるもの、出会うものが段違いに豊かである。
 指導者の野口裕之先生いわく「お尻が止まる動き、この締まりの体感が、節操というものです」。この一言は以来、私の座右銘となる。

(1993.12.21 中国新聞 『緑地帯』)