坐る

 われわれ戦後生まれは、正坐が難しい。高校のころ通っていたお茶の先生から、初釜に誘われた時、足のしびれに尋常ならざるものを覚え、その向こう先に恐れを感じた途端、ひっくり返ったことがある。すぐにお茶の稽古を止めたのは言うまでもない。
 以来、世の中は「自然体で」が主流となり、私などにとってはある面、都合のよい時代となった。身体を楽な方へと誘うのが現代文明だとしたら、いい時代に生を受けたのかもしれないが、ここにきて、それはどうも違うのではないかと思えてならない。
 整体法研究所の野口裕之先生が「旧仮名づかいから新仮名づかいに変わって、人間の腹、腰の感覚はダメになってしまった」と話されたことがある。
 正坐し腹の奥に力を入れないですむ新仮名づかいで、例えば「喝」を「カーツ」と発したときと、旧仮名づかいで「クワーツ」と発声した時の自分の腹の充実をよくよく味わえば、たちどころに人としての勢いがどちらに在るかが納得できる。言うなれば、「カーツ」は口先だけの楽な方、「クワーツ」はそのつめる言葉ゆえ発声した途端に腹に力が入る身体感覚がある。
 このこと一つを考えてみても、先人たちが築き上げた日本の文化には、それを行うことで、人としての勢いが誘われ、明日への元気が生み出される力があったような気がする。楽に馴らされた私たちには、なかなか気づきにくいことではあるが、簡単に捨ててしまっては、取り返しのつかない文化遺産が、この日本には山ほどあるのだ。

(1993.12.20 中国新聞 『緑地帯』)