立つ

 立姿が美しいという人は、なかなかいない。私など「立つ」とイメージしただけで、その自立性、拮抗性に気おされて、劣等感に嘖まれる。「どう立つか」は、確かに人として生きる技には違いない。「立つ」という時、上に伸びてゆく勢いはすぐに空想できても、足が地に着く下への力感は、私にとって永々現実のものとはならない。
 だからというわけではないが、過日、私の所属する社団法人整体協会の研究機関、整体法研究所主催の京都稽古会で、生まれて初めて倒立を体感した時、それが天地逆さまではあったとしても「立つ」自己のりりしさに、全く新しい自分を発見した思いで、嬉しかったことを覚えている。
 もとに体位を戻した時、逆さまで感じた自己充実を、追体験するように、体は自然に上と下との拮抗をとり、腰を中心として体はまとまってくる。これはどういうことなのだろう。倒立において私が感じた力強さ、美しさ、拮抗感は、その動きの中で、自らの身体機能を全力で発揮した時にのみ、体感できるとすれば「立つ」ことの意味が少しははっきりする。
 整体協会創立者、野口晴哉先生は、この身体の全機能を使って生きることを「全生」という言葉で説き、われわれの活動の理想とされた。しかし今、あらゆる世界で、この全機的生は奪われている。先生が残された一文は、そういう今、私たちがこの身体を通して、何を次代に伝えていかなければならないのかを示唆されているようで、力が湧いてくるのである。
 「溌剌と生きるもののみ、深い眠りがある。生き切ったものにだけ、安らかな死がある」

(1993.12.17 中国新聞 『緑地帯』)